kahsuke5555のブログ

本の感想について書いています。

(10冊目)伊藤計劃「虐殺器官」ハヤカワ文庫。

僕がこの本に出会ったのは、二つの幸運な偶然が重なった事による。


一つは、池袋のジュンク堂瀬名秀明さんのトークショーに行った時。たまたまその場にデビュー直前の円城塔さんがいて、瀬名さんが円城さんのことを紹介してくれた事。

それがきっかけで円城さんのデビュー作「Self Reference Engine」を読む。ムチャクチャ面白いと感じた僕は、サイン欲しさと話聞きたさに三省堂でやる円城さんのトークショーに行くことを即決する。その時の円城さんの対談相手だったが、たまたま同じくデビュー間もない伊藤計劃さんだったのだ。

それが2007年の夏ごろの事。これが僕の二つ目のそして一番の大きな幸運だ。

伊藤さんは、それから僅か1年にも満たない2008年の3月に亡くなってしまう。その時に長年癌で闘病されていた事を始めて知った僕は、自分のおめでたさを恥じると同時に、少なくないショックを受けた。それでも、生前の伊藤計劃に間に合ったという事は、僕の読書遍歴の誇りであり、自慢でもある。


もう10数年前の事なので、随分と記憶が薄れてしまっているが、トークショーの時に「いかに効率よく人を殺すか」という話をされていた事はなぜだか鮮明に覚えている。

その時は「随分と命を粗末に考える人だなあ」とさえ思った。けど、訃報に触れて、改めて「虐殺器官」を読み返してみると、伊藤さんが他人の死だけでなく、自分の死さえも相対化し、客観的に見ていたんだという事に気づかされる。ここまで相対的に死を描いた作品は、純文学も含めてほとんどないんじゃないだろうか。


この小説はタイトルに「虐殺」とついているように、「死」を描いた物語という一面がある。


紛争地域でテロや内乱が収束したかと思った矢先、突然、大規模な内乱や虐殺が発生する事態が多発する。そこには決まってちらつくのは、ジョン=ポールという一人の男の陰。

米軍のシェパード大尉は、それらの殺戮を阻止するため、ジョン暗殺の命令を受け、彼の足取りを追うために紛争地域へと赴くことになる。


そこで描かれている「死」は、どこまでも容赦がない。それだけでなく過剰に装飾される事なく淡々としている。それだけにとてもリアルだ。

人間は平等であるという建前がある以上、本来人の「命」もそうであるはずだ。しかし、完全武装の米軍と紛争地域の少年少女たちとの間には大きな格差が存在する。

それによって、「正義」の名のもとに「命」さえも格差がつけられていく。そんな世界の現実を暴きたてる。その筆致も相対的なので淡々としているが、容赦はない。


この本が伊藤さんの死後も多くの人に読まれ続けているのは、「死」に対する深い考察を根底に持ちながら、エンターテインメント小説としても優れている事が大きい。

ファンであると公言していた、小島秀夫さんの世界観を折り込みながら、ディティールが細かく積み上げられており、それが戦闘シーンに代表される臨場感に溢れたリアルな描写につながっている。


最初に読んだときは「本物そっくりのゲーム」のような小説だなと感じた。それが十数年経って今読み返すと、「ゲーム」のはずだった小説の世界がどんどんと、現実に近づいているかのようだ。

かつては「フェアプレイ」がポリシーだったはずなのに、それと対極の「暗殺」を紛争解決の手段に用いるようになったアメリカ。戦場に持ち込まれるようになった費用対効果の考え方。それによって幅を効かせるようになる、民間の軍事会社……。

核兵器使用に対する指導者たちへのハードルは、まだ辛うじてまだ高いままだけど、これだって将来はどうなるか分からない。作品が古びる事がないどころか、段々と今に近づいていく。伊藤さんの世界を見通す目とそれを表現する力には、改めて驚かされる。


それだけに、もしまだ伊藤さんがご存命だとしたら、このコロナ下の世界をどう描くのか。そんな事をどうしても考えてしまう。多分、それは僕達の想像もしない方法と精度で行われるだろう。だから、その疑問自体に、あまり意味がない事は重々わかっているつもりだ。


それでもそんな事を考えさせてしまう。そんな力をこの本が持っている事は、どうやら確かなようだ。

(9冊目)高野秀行「アヘン王国潜入記」集英社文庫。

やらせ問題で放送終了になっていた「クレイジージャーニー」。経緯が経緯だけにこのままフェードアウトするかと思っていたら、多くの視聴者からの要望に押されて、限定で復活する事になったらしい。

個人的には、とても好きなテレビ番組だったので、もう一度新しい番組を見る事が出来て、とても嬉しいです。やっぱり未知の、常人では計り知れない光景を見るというのは、とても好奇心を刺激するし、理屈抜きで楽しい。


とはいえ、沢木耕太郎さんが「深夜特急」を書いた時代と比べると、旅を取り巻く環境は大きく変わってしまった。交通機関の発達やインターネットや通信網の発達で、旅のスピードは大幅に早くなり、行動範囲は大きく広がった。

しかし、それは良いことばかりでない。Googleアースを見れば、北朝鮮の基地の場所さえ分かってしまう。それは、地理的に未到の地がいまやほとんどなくなってしまっている、という事を表している。

この番組のおかげで、丸山ゴンザレスさんや、ヨシダナギさん、佐藤健寿さんなどが、大きく脚光を浴びる事になった。確かに彼らのアプローチはとても面白い。時には危険と背中合わせの場所にも赴いている。


そんな彼らよりも、20年近く前から「クレージー」な旅を続けてきたのが、この本の著者の高野秀行さんだ。

番組が始まった時に、「確かに凄いけど……、映像だからより凄く見えるだけて、似たような事はもう高野さんがやってるじゃん」と思ったのは私だけではないはずだ。


高野さんのモットーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それをおもしろく書く」事だ。全て読んだわけではないが、デビュー当初からそれは全くぶれていない。

デビューしたのが、早大の冒険部の在学時。湖の主や怪獣を探したり、アフリカでリアル北斗の拳の世界を体感したり……。上っ面だけみれば「こどもかよ!」と突っ込みたくなってしまう。

多分、子供のまま大人になった部分もあるんだろうなあとは思う。けど、これだけの交渉力と実行力、語学力や文章力を持っている人間は、大人の中にもそうはいない。そのハイスペックな能力を、サラリーマン生活になって浪費しなくて本当に良かったと思う。


「誰も行かないところ」

そうはいったも、前述した通り、地理的に未知の場所はどんどんと無くなっていく。

この本が草思社から「ビルマ・アヘン王国潜入記」として刊行された1998年の段階で、程度差こそあれ、そのような問題は顕在化している。


本文の中で、

「現在、世界に残されている『秘境』とは『政治的秘境』か、人間の精神の暗部に巣くう比喩的な意味での秘境しかないというのが、私が十年にわたってアフリカや南米の辺境を歩いて得た結論であった」

と書かれている。移動可能な地理的な『秘境』が地球上からは、ほとんど消えてしまっている。その事を意識した上で、高野さんの冒険は行われている。


それでもである。


麻薬の栽培の実態を知りたいからといって、現地に行って現地のみなさんと一緒に大麻を栽培してみようとは、普通は思わない。仮に、思ったとしても実行には移さない。それが社会で生きている分別のある大人だ。実現できるまでのハードルはとても高いし、そこにいくまでの手間は恐ろしいといってもいいくらい掛かる。高野さんはそれを本当にビルマミャンマー)でやってしまう。

多くのジャーナリズムは上空から俯瞰して見下ろし、そこから見たものを記事にする。多角的に見て、客観的に判断するためには必要な方法論だ。一つのやり方としては正しい。けど、それに違和感を抱いてしまうのが高野さんであり、そういう人でないとビルマで実際に大麻を栽培して、本書のようにその一部始終を文章にすることはできない。


そこには、高野さんが徹底的に当事者であろうとしていることが大きい。

「とにかく私としては、一本一本の木を触って樹皮の手ざわりを感じ、花の匂いや枝葉がつくる日陰の心地よさを知りたかった。それから森全体を眺めてもいいのではないかと思った」

当事者として自分の皮膚で体感し五感をフル回転して、それを言語化する。その事に対してびっくりするほど誠実でマジメだ。マジメさが一途に貫かれ、それが度を超えた時、その人の言動や行動は狂気をはらんでくる。そこは彼らほどマジメではない僕たち『正常』な人間では決してたどり着くことはできない。なので、僕たちは高野さん達のようなクレージーな人達に憧れ彼らの行動を知りたいと思う。

そして、この本はそんな高野さんの著作の中でも最も自分の信念をハードに貫いた中の一冊だ。という事が、書かれてから20年以上経っている事を差し引いても、とびっきりに面白いということだ。

(8冊目)アンドレイ・クルコフ「ペンギンの憂鬱」新潮社。

某大型書店の店頭で本を探していたら、表紙が気に入ってしまい、思わず買ってしまった。いわゆる「ジャケ買い」というヤツですね。

特にペンギンが何ともいえないいい味を出している。友達として親身になってくれているようにも見えるし、人間ごときの事など全てお見通しだよ、と言っているようにも見える。かと思うと、人類そのものに全く興味がないようにも見えないこともない。

「ペンギンの憂鬱」というタイトルと、この何ともいえない表紙との組み合わせ。読む前からいろんな妄想が広がってしまいワクワクしてしまう。


この本の著者のアンドレイ・クルコフウクライナを代表する作家。ただこの作品も含めてロシア語で執筆している。この作品の舞台はソビエトが崩壊し混乱の極にあった、1991年以降のキエフ。91年当時もナショナリストから裏切り者扱いされて、かなり微妙な立場に立たされたらしい。


今回のロシアのウクライナ侵略を受けて、ウクライナに関する本をコーナー展開する書店が増えている。そんな中で、この微妙な出自を持つ作家の代表作も地味ながら注目されている。

もしそうでなかったら、ペンギンが何ともいえないいい味を出している、この表紙の本とも一生出会うことは無かったのかもしれない。本との出会いは、人との出会いと同じくらい奇なものである。


このペンギンの名は「ミーシャ」。この作品の主人公のヴィクトルが飼っている皇帝ペンギンだ。キエフの動物園が餌不足で飼えなくなったのを、彼が引き取って同居人になった。

ヴィクトルは売れない作家だ。けど、作家なのに長編小説を書く才能と強い意志は持ち合わせてない。おまけに彼女には逃げられ、養える成算もないのにペンギンを飼ってしまう。客観的に見るとかなりのダメ人間だ。


ペンギンの御利益か、そんなヴィクトルに仕事が舞い込む。とある新聞社の生きている著名人の追悼文を書くという仕事だ。

政情が不安定なキエフ。もし不幸があったら、すぐに追悼記事を出せるようにするためのデータベース作り。そう受け取ったヴィクトルは、定期収入を得るためにその依頼を受けることにする。


この設定を見た段階で、ヤバい臭いがプンプンしてくる。しかし他人の不幸は蜜の味。読者にとっては、逆にわくわくする展開だ。案の定、ヴィクトルの周囲には不穏な出来事が次々と起こる。

けど、それでも緊迫して抜き差しならない展開にはなかなかならない。それは、ちょっと村上春樹にも近い、淡々とした文体による所もある。

けどそれ以上に、緊張が高まろうとする時に決まって登場する、ミーシャの存在が大きい。その姿は、実際にクルコフがペンギンを買ってるんじゃないの、って思ってしまう位真に迫っているし、そしてとにかく可愛い!

読書の僕でさえ、ミーシャが登場すると、ヴィクトルの周囲で起こっている出来事よりも、意識がペンギンにいってしまい、万事「まっ、いいか」という気分になってしまう。

可愛いだけでなく、ミーシャが日常と非日常、現実と非現実とのスイッチのような存在になっている。この辺のクルコフの筆致は実に巧みだ。


しかし、ミーシャはあくまで皇帝ペンギン。その存在で癒される事はあっても、目の前の問題は解決されず、先送りされ、積み重なっていく。むしろ間接的にではあるが、厄介事が増えてしまうくらいだ。そう考えると、ミーシャが可愛ければ、可愛いほど、問題の解決からは遠ざかる。


おそらく著者は、この構造を理解した上でこの作品を描いている。見た目によらず、この作品と著者は随分と人が悪い。そして、それ故に大変に自分好みの1冊だ。

(7冊目)野口憲一「1本5000円のレンコンがバカ売れする理由」新潮新書。

2020年に、地域ブランド調査最下位からやっと抜け出した茨城県。このままランクアップして目立たない話題になるのでは、という希望も叶わず。僅か1年でその地位に返り咲いてしまう。

この調査自体に問題がある、という茨城県のお偉いさんの言い分にも、確かに一理あると思う。それに地域ブランド力の高い都道府県だという事と、住みやすい場所である事は、必ずしも直結しない。


それでも、デパートで北海道や沖縄や京都の物産展をやっていたら、またかと思いつつもついつい覗いてしまう。けど、残念だけど、茨城だったら、そうはならない。

何といっても、茨城に出掛けた時に、めぼしいものが見つからず、土産にこの本を買ったくらいなのだから。


そんなブランド力最下位の茨城産のレンコンで他県のものを差し置いて飛ぶように売れているものがあるらしい。それも一本5000円で。そんな話を聞いているだけで痛快でワクワクしてしまう。

著者の野口憲一さんは、そんな野口農園の取締役であり、レンコンのブランディングに携わった方だ。


江戸時代から東京は巨大消費都市で、東京だけでは自立できる生産力を持たなかった。そうである以上、周辺地域は東京に生鮮食品を供給する拠点にならざるを得なかった。

そこで求められるのは、大量に安定供給される事。その過程で生産物の個性やブランドは二の次にされてしまう。それだけではないが、東京近郊の県でおおむねブランド力が低いのは、こうした構造的な問題も大きいと思う。

売上げは、単価×販売数で示されるが、そういう地域だと売上げを増やすための施策は、販売数を増やす事に片寄らざるを得ない。


それでも、かつてはレンコンは高級料亭などで使われる高級野菜だった。それが一変するのが政府の減反政策。米が栽培できなくなった土地の一部がレンコン畑へと変わり、作付け面積が急激に増大し、需要と供給のバランスが大きくて崩れていく。

そこに物流の変化や、農協や種の問題、規制緩和による海外との競争の激化など、さまざまな問題が襲いかかってくる。

消費者の利便性を求めた政策が、全て農家の不利益に跳ね返ってくる。読んでいて、本当にやりれなくなってくる。野口さんの考えの根底には、その結果やりがいを奪われた、日本の農業の現状への深い憤りがある。この本は、日本の農業問題の現状を知るための格好な入門書でもある。


そんな「やりがい搾取」の中、野口さんは考える。

「牛の皮」で出来たエルメスの鞄。いくら技術やデザインが優れていても、原材料費はせいぜい一万円に過ぎない、それが何故300万円で売れるのか?

そこでたどり着いたのが、ハイセンス、成功者、お金持ち、上流階級など、エルメスに貼り付いた「記号」がモノの価値を決めているという現実。野口さんは学生時代に学んだ民俗学を足掛かりにして、「記号」作りをしていく。

その中で目をつけたのが、父親や祖父や先祖達がレンコン作りに注いできた情熱と歴史。それはまるである一族の神話や伝承のようにも受け取れる。


そうはいっても、もちろん最初から上手くいった訳ではない。その先も試行錯誤の連続。母親の年金を使い潰してしまい、家族が険悪になっていくくだりなどは、本当にリアリティがあって生々しい。

野口さんにとっては不本意かもしれないが、こういう生々しい部分を隠さずに書いてくれるから、読み物として面白いし、のちのサクセスストーリーがより痛快にかつ真にせまって感じられる。


食べ物だったら、食べてしまえば終わりだけど、本は手元に残る。更に面白い本は記憶にも残る。

そういうふうに自分の都合のいいように考えていくと、自分の茨城土産の見立てはそんなに悪くなかったのかなあ、と自画自賛したくなる。

もっとも、我が家の最寄の書店でも売っていた、という事実には目を瞑る、という事が大前提にはなりますが(笑)

(6冊目)飯嶋和一「黄金旅風」小学館文庫。

出掛けた時に、鞄の中にこの本を入れてしまったのが良くなかった。

一度読み出したら、続きが気になってしまって止まらない。

ちょうどJR東日本でスタンプラリーをやっていた時期。橋本からスタートして茅ヶ崎、小田原、逗子、横浜、千葉と移動し、最後は君津。

この本を読んでいたついでに、駅でスタンプを押していたと言った方が正しい。


実は、僕はできるだけ飯嶋和一さんの本を読まないようにしている。

読んでしまうと、次の読む作品が1冊減ってしまうのだ。そうボヤキたくなる位、この人はとにかく寡作だ。30年以上のキャリアがあり、途中から専業作家になったにも関わらず、その作品は10に満たない。


ただ、その作品はどれも重厚で大変に面白いと言われている。ファンからは敬意を込めて「幻の直木賞作家」、「稀代の歴史小説家」と呼ばれ、出版社のフェアの帯には「飯嶋和一にハズレなし」と書かれる。

「始祖鳥記」に至っては「全日本人必読!」と来た。それが、決して盛りすぎではない所が怖い!


そのレアさも含めて、もはや生きている伝説といってもいい。僕も含めて、とにかく読んだ人を夢中にさせてくれる作家だ。


そしてこの本も、とても楽しく読みごたえのある歴史小説だ。

舞台は、1630年前後の長崎。主人公は長崎代官の二代目末次平蔵。そして、その親友の内町火消組頭・平尾才介である。

二人は子供の頃に同じ神学校に通い、教師のいう事を一切聞かず、乱暴狼藉の限りを尽くす。最後には教師を半殺しにした挙げ句、放校されてしまう。家族ももて余してしまう乱暴者の放蕩息子だ。

そんな二人だが、既存のものの見方に囚われない本質を見抜く力が持っている。それだけではなく仲間や部下への情に篤く、彼らを慕うものも多い。

飯嶋さんの作品には、こうした権力に媚びへつらわない、自分の大切なものをストイックなまでに希求する男たちがよく登場する。その姿はとても魅力的だ。


きっかけは、才介の配下の火消の謎の失踪。ただ、それは氷山の一角に過ぎない事を思い知らされる。父の謎の死で、歴史の表舞台に立つ事になる平蔵は、才介たちとともに、本当の敵と対峙することとなる。

キリシタン弾圧、一触即発の海外との関係。三代将軍・家光と大御所・秀忠との微妙なパワーバランスと、その下で権力や利権争いに暗躍する重臣たち……。様々な要因が、次々に登場し、複雑に絡み合う。

一手舵取りを間違えると、己の身が破滅するだけではなく、多くの人達を巻き込む事になる。ただ正義をなすだけでは、とても渡りきれない。

そんな絶体絶命の状況をどう着地させるのか。読んでいると、ハラハラするだけでなく、次の展開が待ち遠しくなって仕方がなくなってしまう。


そうなってしまったら、もう終わりだ。後は、最後まで読むしかない。

そして、また一つ、読んだ事のない作品が減っていくのだ。

(5冊目)いとうせいこう「想像ラジオ」河出文庫。

この本が最初に出たのが、2013年。それまで、いとうさんは16年間小説を書くことが出来なかった。

物語は普通「AなのでB」という因果関係の繰り返しで出来ている。その「ので」が書けなくなってしまったそうだ。


そこまで来ると、日常生活にも影響があったかと思われるが、少しだけ分かるような気もする。

本来「A」と「B」は別のものである事がほとんどだ。それを「ので」で繋いで物語を作るという事は、そこに「作為」が生じるという事でもある。

それだけではない。読者という第3者に伝えるために、時にはその「ので」を分かりやすくしたり、説明したりしなければならなくないケースも多い。

僕みたいな人間でさえ、インプロをやっている時に、その嘘くささに耐えられなくなり、身体が次のセリフを発するのを拒絶する時がある。

一度はまりこむと、その穴は結構深い。


それでも、16年ぶりにこの作品を書くことができたのは、技術や精神的な問題がクリアになった事もあるだろう。けど、それ以上に2011年3月11日の東日本大震災を経験した事が大きい。


この小説に登場する舞台は、東日本大震災で被災した海沿いの街。深夜2時46分、木のてっぺんに引っ掛かっているという、DJアークがパーソナリティをつとめるラジオ番組がオンエアされる。

ただ、ラジオ番組はAMやFMといった既存の電波で流れているのではない。電波として使われているのは、その人の「想像力」。その中でだけラジオは聴こえるのだ。


小説の内容はもちろんだが、DJアークのプレイリストがとにかく素晴らしい。読みながらでも、読み終わった後でもいいので、是非聴いてみてもらいたいです。

・ザ・モンキーズ「デイドリーム・ビリーバー」
ブームタウン・ラッツ「哀愁のマンディ」
フランク・シナトラ「私を野球につれてって」
・ブラッド・スウェット&ティアーズ「ソー・マッチ・ラブ」
アントニオ・カルロス・ジョビン「三月の水」
マイケル・フランクス「アバンダンド・ガーデン」
コリーヌ・ベイリー・レイ「あの日の海」
モーツアルト「レクイエム」冒頭 合唱~ソプラノ独唱
松崎しげる愛のメモリー
ボブ・マーリー「リデンプション・ソング」


小説の中で描かれている音楽が素晴らしいのは、いとうさん自身もDJであり、かつミュージシャンで、「聞く人」であるという事が大きい。


この小説は五章から成り立っている。1、3、5章はDJアークのラジオ番組。その真ん中、2章は作家Sが仲間達と復興支援のボランティアに向かう車中でのやり取り。4章はSと女性との現実とも夢ともつかない場所での会話が挟まれている。


解説の中で星野智幸さんは、

『この小説がしきりに促すのは、死んだ人のことに囚われていていいんだよ、忘れられずに思い返し続けるのでいいんだよ、そのまま一緒に生きればいいのだから、ということです。』

と語っている。これは4章に描かれている事だ。


『さらに、当事者じゃないからといって、やましく思うことはない、デリカシーを持ちながら、自分とは遠いはずの死者のことを思い続けてかまわない、とささやきかけてきます』

こちらは小説の2章に当たる部分だ。デリカシーを持つために必要な事。それが「死者も含めた当事者の言葉に耳を傾ける」事であり、そのために必要なものが「想像力」だ。


そこで語られているのは、東日本大震災という10年以上前に起こった未曾有の出来ごとについてだけではない。

生者は死者とどう向かい合っていくのか?そんな普遍的な問題を考えるための、大事な手懸りも教えてくれる。

それが、自分は決して「孤独」ではないという希望にもなり、「歴史」の中に生きているという確信にもなる。


藤原新也さんの「メメント・モリ」が最初に刊行されたのが、1983年。その頃以上に、僕達の周りはまがい物の死が横溢し、本物の死の臭いが感じられなくなってしまった。

そんな今だからこそ、「聞く人」である、いとうせいこうさんの書いたこの小説は、もっとたくさんの人に読まれるべきだろうと思う。

(4冊目)川代紗生「私の居場所が見つからない。」ダイヤモンド社。

おそらく他の人より、書店員さんへの尊敬への気持ちが強い方だと思う。

取次という仕事柄もあるし、若い頃に営業で書店さんを回っていたのも大きいだろう。僕は仕事も含めて、文字通り「書店」でいろいろな事を教わった人間だ。


ただ書店は、というより出版業界は現状かなり厳しい。ピーク時と比較して、雑誌のビジネススケールは半分まで縮小した。街の本屋さんは廃業する一方。書店さんがない市町村もかなりの数に上っている。

そもそもが他業界と比較して、小売の利益率が極端に低いという構造的な問題点を抱えている。

例えば1000円の本を売ったとする。書店さんの利益はだいたい200~230円位だ。雑誌という「定期収入」がある程度あった頃はいい。けど、それが半減してしまった今、より利益率が高い商材を確保しなければ、生き残りが難しくなっている。


そんな業界の命題に、面白いアプローチで取り組んでいる、天狼院書店さんというチェーンがある。本にまつわる面白い事なら何でもやってしまう、とにかくフットワークの軽い書店さんだ。

川代さんはかつてはそこの書店員で、今はフリーランスでライターをされている。この本が始めての単行本になる。


この本なかなか面白いのは、元書店員さんが本を出したにも関わらず、「本」に関する事がほとんど書かれていないという事。


例えば、書店員さんの本といえば、花田菜々子さんや新井見枝子さんのエッセイ等が真っ先に思い付く。

その面白さを支えているのは、お二人が優れた「本」のプロである事。だからこそ、そうでない僕たちは、書かれている事に対して共感して、感銘を受ける。


それに対して、川代さんが武器にしているのは、「承認欲求」を中心とした、己れのコンプレックスに関する事。

プロの「本屋」さんと比べると、程度差こそあれ、誰でも持っているものだ。

川代さんが凄いのは、とてつもない勤勉さで、それをいろいろな角度から、深く掘り下げている事。それが、自分にしか描けない世界を作り上げる推進力になっている。


例えば、「石原さとみ」に憧れる女性はとても多いだろう。なれるものならなりたいと、異性の自分でさえ思う。

ただ、普通の人はそれで終る。どんなに頑張っても、彼女にはなれないからだ。せいぜいファッションやメイク、好きなものをマネする位までだ。

けど川代さんは、真剣になろうと努力し、何故なれないのかをとことんまで考え抜く。


『私は石原さとみになりたい。

でも、石原さとみにはなれない。石原さとみの真似メイクをしたところで近づけるわけじゃないし、あの、男みんなを落とすようなかわいらしい表情もできない。
けれど、自分らしいスタイルなら、見つけられるんじゃないかと、思えるようになった。
私のどこが魅力か?どんな服を着ればかわいく見えるか?
どんなメイクをすれば、どんな髪型にすれば、どんな表情にすれば、どんな仕草をすれば。
自分が女らしく、かわいくなるためにどうすればいいかを考えるのはちょっと気恥ずかしいけれど。
石原さとみになりたい」なんて言っているだけで努力も何もしない怠惰な自分をやめて、女として成長するために、いい女の仲間入りをするために。』


本当に「努力も何もしない怠惰な人間」はここまで、自分をさらけ出す事はできない。たとえ自己承認欲求が人並み外れて高くても、ここまで何かを真面目に考えようとはしない。

大変に読みやすく文章にも関わらず、途中で何度も読むのを中断してしまったのは、自分が「努力も何もしない怠惰な人間」である事を身に積まされてしまったからである。


天狼院書店さんは本の販売の他に、さまざまなセミナーを開催している。その中の一つにライティングの講座がある。

特別な経験をしていなくても、特殊な仕事についていなくても、自分を突き詰めて鍛錬をすれば、他人に読んでもらうに値する文章を書くことができる。

講座の受講生たちにとっては、この本は大きな希望だ。


そして自分のような怠惰な人間には、何かアクションを起こさずにはいられなくなる。そんなエネルギーがもらえる本である。