kahsuke5555のブログ

本の感想について書いています。

(3冊目)太宰治「走れメロス」新潮社文庫

三鷹で、一年通じて太宰治の作品を読む」

という読書会の案内を年明けたまたま目にした。2月のお題が「駆け込み訴え」と、この「走れメロス」。

これは面白そうだと思い、スケジュールを確認したら、即申込みする事に。


三鷹といえば、言うまでもなく太宰ととてもゆかりの深い場所。1948年、38才の時に玉川上水で亡くなったのは市内だし、その後葬られた禅林寺も、芸術文化センターの近くにある。

太宰の亡くなった日の6月13日の桜桃忌には、全国から沢山のファンがお寺を訪れ、その前後には文化センターに役者さんを呼んで太宰の作品の朗読会が行われるなど、関連イベントも開催される。

その他にも、三鷹駅の近くにあるギャラリーでは自宅が一部再現されたり等、ゆかりの地である事を、観光資源としてフル活用している。

生前、借金に追いたてられていた太宰。もし、生きていたら、ライセンス料を寄越せとか言い出しそうだ。


インプロで、「名作1分」と呼ばれているゲームがある。タイトルの通り、古今東西の名作を1分で演じるというものだ。

この名作も何度か演じた時がある。その時は、王の怒りを買って囚われの身となった親友を救うため、メロスが命を賭けて走る。

子供の頃のうっすらとした記憶を頼りに、そんなふうに演じたような気がする。何と言っても、学校教科書にも載っているような、崇高な友情を描いた作品だ。

文部科学相推奨。道徳的にも、何ら問題があろうはずはない。


そう思いながら、読書会のために久々に読んでみた。けど、どうも今まで自分がイメージしていたメロス像とはちょっと違う。強い違和感を感じる。たとえば、この一文。

『そんなに私を信じられないのならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい』


セリヌンティウスの都合は一切関係ない。親友をいい事に一方的でさえある。何て、マイペースでめんどくさい男なのだろう。

そもそも王に捕らえられたメロスが走ることになったのは、妹の結婚式に出席するためだ。

『メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪ねた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、と答えた。』


牧人の言っていることは、極めて正論である。もう無茶苦茶だ。せめて結婚式が済むまで待ってから激怒しろよ、と突っ込みたくなる。

そうすれば、少なくてもセリヌンティウスは人質になる事はなかったはずだ。彼は、何でメロスのような奴と親友なのだろうか?読んでいて不憫にさえなってくる。


この作品のモデルになっているものは、二つあるそう。一つは古代ギリシャの話を下敷きにしたシラーの詩。

もう一つは、盟友の壇一雄と熱海に行った時のエピソード。二人でいる時は可能な限り近づきたくないコンビだ。

泊まってどんちゃん騒ぎしていたら、お約束どおり支払うお金がなくなってしまう二人。師匠の井伏鱒二からお金を工面するため、壇を人質に置いて、金策のために走る太宰。

ただ小説と違うのは、太宰がそのまま帰ってこなかった事。どうやら井伏から工面したお金で、飲みに行ってしまったらしい。

読み方によっては、メロスを通じて、その件の言い訳をしているようにも見えてしまう。



読書会で面白かったのは、メロスの事を「高潔な人間」と捉えた人たちと、「めんどくさいヤツ」と捉えた人達とが、キレイに二分した事。

ニュートラルな意見が皆無なのが、とても太宰らしい。


ここまで書いてきたように、僕は後者の方に与する人間だ。けど、まずは壇とのエピソードで生れた、「ダメ人間の言い訳」というバイアスを外す。

次に、ここでは描かれていない、メロスとセリヌンティウスとの出会いや友情のエピソードを膨らませる。そうすると高潔な人物だと主張する方達の意見も、自分のそれとは違うけど、分かるような気がする。

この作品が1940年という戦時中に書かれたものだという事を加味すれば、なおさらだ。


好きであれ、嫌いであれ、太宰の作品が読者の感情のどこかのスイッチを押してしまう。

リエーターにとって一番救われないのは、作家や登場人物が嫌われる事ではない。何の記憶にも印象にも残らない事じゃないかと思う。もちろん、他人を傷つける事は論外だけど。

そう考えると、この作品は間違いなく「いい」小説だと思う。ただ、太宰もメロスも本当にめんどくさい奴だ、とは思いつつではありますけど。

(2冊目)日高トモキチ「レオノーラの卵 日高トモキチ小説集」光文社。

年末、下北沢にある本屋B&Bさんのイベントに行ったときに、瀧井朝世さんが今年面白かった本の1冊としてあげていたのが、この「レオノーラの卵」。

日高トモキチさんって、何者?」

って思いながらも、何だか面白そうだと思い、年末最後の本屋さんでの買い物で購入して読んでみることに。

日高トモキチさんは1965年生まれ。早稲田大学出身で、漫画家であり、イラストレーターであり、作家さんであるらしい。情報が多くなると、本質が分からなくなる。その典型だ。

どうやら、この作品が著者にとっては、始めての1冊のものとして刊行された小説らしい。なるほど、だから「小説集」と謳っている訳ね。


年明け、あの「黒牢城」と平行して読んでいました。ベクトルは全然違いますが、面白さだけだったら、のちの直木賞受賞作に負けていない。


そして1月半ば。今年、最初の読書会。どちらを持っていこうか、かなり悩みました。どちらの作品も一人でも沢山の人に読んでもらいたいですし。

「黒牢城」は別に自分が紹介しなくても、いくらでも他の人が紹介してくれそうだということもありますし、こっちかなと傾きかける心。

けど、僕が選んだのは「レオノーラの卵」ではなく米澤さんの作品の方。理由は、この小説集を巧く説明する言葉が思いつかなかったから。既存の「~っぽい」とか「~というジャンル」という表現を使おうとしても、どうしても自分の引き出しの中にある言葉ではしっくりとくるものが思い浮かばない。

けど面白い。そして、この面白さを、ネタバレしないように一人でも多くの人に伝えたい。自分の語彙の少なさが悔しくなってくる。


幻想文学、大人の童話、超絶技法のパロディ小説、文字で書いた漫画や絵本……。

確かにそうした一面もあるだろう。7編の短篇で構成された作品集だ。ひとことで語りきれない多様な側面がある。けど全部そうだともいえるし、それだけではないようにも思える。


そんな風に悩んでいる時に、日高さんのインタビューを読んでいたら、ご自身の作品を「与太話」と評している部分があり、「なるほど、言い得て妙だ」と思った。この言葉をキーワードにすれば、何とか説明できそうだ。

宮沢賢治、ガルシア=マルケス、ピーターパン、エルトン・ジョン、赤木しげる、マリイ・セレスト号事件……等々。この作品集には、実に様々な作品や事件や人物のキーワードが散りばめられている。

それを見ているだけでもワクワクしてしまう。本当に博覧強記なお方だ。

日高さんは、これらのキーワードを差別せずに扱う。だから自由だし、それが化学反応を起こし、見たことのないものを産み出す。

そして、そのエネルギーを、バカバカしくておかしいものを作り出すためだけに注ぎ込む。だから、そこには教訓のようなものは何もないかもしれない。けど抜群に面白い。まさに「与太話」だ。

その知識の扱い方は、少しだけ寺山修司に似ているようにも感じられる。知識ってこういう風に使いたい。そんな憧れさえ抱いてしまう。


そんな自由な発想から生まれた作品は、私たち読者の頭の中に、とても豊かなイメージや映像の世界を作り出す。言葉だけで映像を喚起させる力が強い所は、落語と重なる部分がある。

言うまでもない。落語はずっと昔から「与太話」をやり続けている芸能だ。


「小説は真実より奇なり、じゃよ」
「なに当たり前のこと言ってるんですか」

本書の中の一節だ。

私たちはそうあるべきだと信じて小説を読む。けど、残念だけどそれが叶わないことが、往々にしてある事を、経験上知っている。

ただ、この本についてはその心配は全くの無用である。この部分については紛れもない「真実」である。それについてだけは、自信をもって言える。

(1冊目 )フィッツジェラルド 村上春樹訳「グレート・ギャッビー」中央公論社

一番最初に手をつけたのが、5年半前。その間手をつけて挫折した事4回。別につまらなかった訳ではない。途中で読まなきゃいけない本が出てきたり、何となくフェードアウトしたりしてしまったからだ。

むしろすごく面白い。そうでなければ4回も挫折して再度読み直そうとは思わない。文章も流れるようでとても美しい。


これは、翻訳をしている村上春樹さんの力も大きいと思う。村上さんにとってこの作品はとても思いいれのある作品だそうだ。村上さんは35才の時に60才になったら、この作品を翻訳しようと決心したらしい。

フィッツジェラルドがこの作品を書いたのが、30過ぎの頃。もしかしたら同世代のうちに翻訳したい、という誘惑はあったのかもしれない。それでも村上さんは自分の翻訳の力がつききるまでそれを待った。結果的には予定よりも早く翻訳に着手する事になるのだが、それでも普通の人はなかなかこうはいかない。凄いことだ。

気になったフレーズをノートに書き写していると、文章が流れるようなのは句読点一つまで考え抜かれて書かれたからなんだろうな、という事がとてもよく分かる。ダテに、延べ20年以上掛けて翻訳していない。


それでも、自分は読了するまでに、のべ5年4回挫折してしまっている。何故なのだろうかと考えていると、一見するとギャッビーが非の打ち所のなく、毎日バーティーに明け暮れる大金持ちだから。

自分とかけ離れた人物にはどうしても共感できないもの。共感できない作品を読む優先順位はどうしても後ろに下がってしまうものです。


ただ、もし5年半前の自分に声を懸けれるなら、こういってやりたい。

「そこでやめたら、絶対後悔するぞ!」

そう、私は激しく後悔している。毎日パーリーナイトしているギャッビーの姿を見て、語り手のキャラウェイ君ともども、読者は彼に対して二つの疑問を抱く。

「彼は何者で、何のためにこんな事をやっているの?」

それが、少しずつ見え始めた時から、この物語は抜群に面白くなる。そして、もうそれからは本を読む手は止まらなくなる。


フイッツジェラルドは、この作品のギャッビーのように、奥さんと華やかな生活を送ったらしい。写真を見ると甘いマスクをしているし、メディアも映画産業も、それほどは発達していない時代。今の作家とは考えられないくらいスター扱いされたのだろう。

その中で彼は有名になりちやほやしてもらえる反面、彼の人間性ではなく、富や名声に群がってくることに空しさを感じていたのではないだろうか。世の中の表と裏、本音と建前を知り尽くしていないと書けない話しだと思う。

アルコール依存性になり、身体を壊し40ちょっとで亡くなったのは、いろいろなものが見えすぎてしまった男への代償かもしれない。


こうやって、とりとめもないことを考えていると、村上さんが『グレートギャッビー』の翻訳を60才まで待ったのも、健康マラソンおじさんになったのも、憧れたフイッツジェラルドの若すぎる死への反動のような気もしてくる。

さすがに、それは考えすぎか?


走ること、それによって人生と向かい合って来たことについて書かれてたエッセイ。村上さんのエッセイは、一歩一歩地に足をつけて粘り強く考えて書かれているところが好きです。